〇馬伯庸;池田智恵訳、立原透耶監訳『長安のライチ』 文藝春秋 2026.3
昨年、日本でも公開されて話題になった中国映画『長安的荔枝』の原作小説である。私は先にドラマ版を視聴し、次に映画を見たら、かなり違いがあったので、原作はどっちに近いんだろう?という興味もあって読んでみた。その結果、ドラマも映画も、それぞれ原作を大幅に改変していることが分かった。
主人公の李善徳は、大唐・長安の上林署に勤める下級役人。上司と同僚たちの陰謀で「嶺南からライチを輸送するライチ使」を押し付けられ、勅使として広州へ下る。この基本設定は、ドラマも映画も小説も同じ。嶺南五府経略使の何履光と、その掌書記の趙辛民は、李善徳に通行符牒を発行すると、あとは勝手にしてくれと追い払ってしまう。途方にくれる李善徳に声をかけてきたのは胡人の商人の蘇諒で、通行符牒の借用と引き換えに大金を用立てる。これを元手に、李善徳は新鮮なライチの保存と最適ルートの選択に知恵を絞り、陸路と水路を併用した試験輸送に挑む。結果は11日間で丹江口(湖北省?)に達したが、長安には届かなかった。
これは李善徳には想定内で、輸送方法の改善には朝廷の力が必要だった。そこで李善徳はいったん長安に戻り、右相・楊国忠の支援を得て、万全の体制で本番のライチ輸送をスタートさせる。宿駅の村人たちの離散など、想定外の事態に直面しつつも、右相の銀牌で危機を切り抜け、6月1日、楊貴妃の誕生日にライチを献ずることができた。
しかし李善徳は、宮廷の贅沢が民を苦しめていることを直言し、右相の不興を買う。そして嶺南に左遷された李善徳一家は、一年後、安禄山の反乱と長安陥落の知らせを聞くのだった。
まず、映画版は、ライチの献上に成功する点は小説どおりだった。ドラマでは、聖人(皇帝)と貴妃に届けられたライチはすでに変質しており、李善徳の手柄を横取りしようとした宦官の魚朝恩が責めを負うことになる(輸送に成功したライチは、李善徳の幼い娘に与えられる)。映画では、李善徳自身が単騎で長安の宮城に駆け込むシーンがクライマックスだが、小説では、ぼんやり上好坊(乱葬の地)のあたりで待っている李善徳の横を、乗り手の分からない早馬が、ライチを収めた甕を載せて駆け抜けていく。小説のほうがリアルだが、映画はやはり視覚的な見せ場がほしいのだと思う。
映画では、李善徳の輸送隊が窮地に陥ったとき、ケンカ別れした蘇諒が船で救援に現れるが、この展開は小説にはない。また、魚朝恩の放った刺客に襲われることもないし、少数民族の奴隷だった林邑奴が李善徳を守って命を落とす(虎に襲われる)のは試験輸送でのできごとである。つまり映画版は、かなり粉飾を加えて、ライチの長安到着というクライマックスを華々しく盛り上げているのだ。
粉飾という点ではドラマ版のほうが激しい。小説には影もかたちも出てこないキャラクターが多数登場し、複雑な前日譚が付け加えられているが、まあ楽しめたので、私はこの改変に文句はない。
意外だったのは、映画でもドラマでも印象に残る悪役の魚朝恩が、小説ではわりとアッサリ書かれていたこと。このひとは実在の人物で、政治に干渉し、名利を追求した宦官の代表格なのだな。そして小説では、魚朝恩と楊国忠の両者の権勢を挫く、「馮元一」と名乗る人物が、名前だけ登場する。李善徳の友人、韓洄と杜甫はその正体が高力士であることを見抜く。そもそもライチ輸送の一件は、全て嶺南出身の高力士の差し金だったのではないか。この種明かし、私はとても気に入ったのだが、映画とドラマには取り入れられてなかったように記憶する(馬伯庸先生、高力士のことが好きだよねえ、まあ私も好きなんですけど)。
また、小説では杜甫が非常に重要な役として登場する。「前出塞九首」の連作、いいなあ。あまりにも表現が率直で、日本人には好まれない作品かもしれないが、じっくり読んでみたい。本書では、杜甫が上好坊で墓守の老兵に出会って聞いた話をもとに作ったと語られている。ちなみに『長安十二時辰』の張小敬も上好坊で墓守をしていたことになっているらしい。
本書の帯には「白熱の不可能ミッション社畜アドベンチャー!」というコピーが踊っているが、私の感覚では、小説の李善徳は(上の命令に従うだけの)「社畜」のイメージに合致しない。確かに押し付けられたのは「不可能ミッション」だが、彼は人並み外れた計算能力と設計能力で、問題解決に没頭し、ついに突破口を見つけ出す。その挙句、自ら右相の銀牌を振りかざして、人々に無理を強いる側に立ってしまったことを悔いるのだが。やはりこれは独立独歩の兵士の物語ではないかと思う。