〇遠藤正敬『戸籍の日本史』(インターナショナル新書) 集英社インターナショナル 2025.10
戸籍という「制度」あるいは「秩序」について、歴史の観点から掘り起こした労作。著者の結論は終章に述べられているとおり、
- 戸籍を持たないことの不利益はほとんどないので、行政の多大なコストを費やしてまで戸籍を存続させておく意味は極めて乏しい。
- 戸籍を支える価値観は、明治時代を起点とする「家の思想」に拠って立つものだが、多様化の進む「家族」や「性」のあり方と明白な摩擦を生じ、「戸籍の規格」にそぐわない者を社会から排除するという弊害を根付かせてきた。
になるだろう。私はこれに全面的に同意する。
明治以前、日本に暮らす人々は、それぞれ領地や身分に基づいたアイデンティティを持っていたが、欧米列強と対峙するため「国民」の創出が必要となった。このとき求められたのが「国民登録簿」としての戸籍である。明治新政府は、古代律令国家の戸籍(徴兵と課税のためのツール)を復活させると同時に、人民を「家」の一員と設定することで、各々が個人主義に流れることを防ぎ、「家」の延長としての「国家」へ統合していこうとした。そこで導入されたのが「戸主制度」である。
戸主は誰を「家」の一員とするか決定する権利を有した。ただし戸主および家族は同じ氏を名乗る「一家一氏一籍」が原則とされた。このへん、儒教道徳や江戸時代までの慣習と異なることは、本書に詳述されているとおりである。
明治5年(1872)に編成された壬申戸籍は、日本の領土に居住する者全てを日本人(臣民一般)として登録することを目指していた。つまり、今日のような「血統主義」ではなく「居住地主義」によって日本人が画定されたのである(なるほど、これは気づかなかった)。その結果、北海道のアイヌや沖縄の琉球民族、小笠原諸島の外国人住民、さらにサンカも「日本国籍」に編入された。しかし、アイヌや琉球民族に対しては、明白に文化的アイデンティティの放棄と同化の強要が行われた。
同じことは、朝鮮、台湾、満州においても繰り返されていく。ただし一視同仁のタテマエがあったり、無視できない文化習俗の違いがあったり、内地人と外地人の婚姻問題があったりして、実態は非常に複雑である。「満州国」には、ついに国籍法が制定されなかったことを初めて知った。
一方、明治から大正にかけて北南米に「海外雄飛」する日本人が増加するが、血統主義をとる日本の国籍法に従い、移民一世はもちろん二世も日本国籍を有していた。出生、死亡、婚姻などは在外公館に届け出ることになっていたが、移民として生きる覚悟を決めた日本人にとって戸籍など無用の長物なので(なるほど)忘れられてしまうことも多い。また、近代化に従って国内でも人口移動が増加していくと、戸籍は、ほとんど人口の実態を表さなくなっていく。そのため、政府は1920年から「国勢調査」を実施することにした。国勢調査は実際に生活をともにしている者を「世帯」と記録するので、戸籍よりは、社会の現状を把握するのに役立ったのである。
こんなに役に立たない戸籍制度であるが、戦後も生き延びてしまった。GHQは、戸籍制度を家単位から個人単位に改革することを司法省に求めたが、現状では紙や労力がかかるので難しいという回答を受け入れてしまったという。ただ、戸籍が現住所を反映しないという欠点を補完するため、1951年に住民登録制度(住民票)が生まれ、2013年には、日本国内に住民票を有するすべての者を対象としたマイナンバー制度が成立した。じゃあもう戸籍は要らないんじゃない?と思ったが、本書によれば、政府の中に戸籍解体への動きはないという。戸籍制度の役割は、行政の効率化のために国民の実態を管理することではなく、家制度の下に個人を秩序化すること、言い換えれば国家意識や道徳観念といった日本人の「精神」の管理を担うことではないか、と著者は述べる。
個人的には、こんな胡散臭い制度は早期に廃止でいいと思うが、血統による「日本人」の画定ツール(著者はこれを「フィクション」と評する)が欲しい人々は、容易に手放さないだろう。そして、こっちも胡散臭いと思っていたマイナンバーのほうが、個人を基礎とする点で、かなりマシであることを本書から学んだ。








