見もの・読みもの日記

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キリスト教徒の国、アメリカ/福音派(加藤喜之)

〇加藤喜之『福音派:終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書) 中央公論新社 2025.9

 最近のアメリカの政治状況をめぐって、なぜか古めかしい宗教用語を耳にすることがある。福音派(エヴァンジェリカル)は、元来、プロテスタント教徒を指す一般的な名称だったが、本書では、アメリカの歴史の中で独自の発展を遂げた特殊な宗教集団を指す。米国の福音派は、神の言葉としての聖書、個人的な回心体験、救いの条件としての信仰、そして布教を重視し、独特の終末論的な世界観を持つ。また、長老派・バプテスト派などの多様な宗派を超えた集団であるという。

 20世紀初頭、アメリカのプロテスタント宗派や教団の大部分は、聖書を信じ、マリアの処女懐胎を信じ、キリストの復活を信じていた。しかし、北東部のエリート大学では、進化論に代表される近代科学や聖書の文献学的批判が生まれ、これに抵抗する原理主義者たちは、ラジオという新しいメディアを使って独自の文化圏を築き上げ、ホワイトハウスに影響力を持つ牧師も登場する。

 本書に詳しく登場する大統領の始まりはニクソン。原理主義者のスター牧師ビリー・グラハムはニクソンを支持し、68年と72年の大統領選勝利に貢献した。次いで77年に大統領に就任したカーターは、個人としては福音派的な信仰を持ちつつ、政治家としてはリベラルで政教分離の原則を守った。カーターに失望した福音派・原理主義使者は、保守的な政治勢力として結束していく。

 80年初頭、共和党の予備選に勝利したレーガンは福音派を自陣営に引き入れる。カウンターカルチャーの60年代が終わり、斜陽の70年代が過ぎ、「再びアメリカを偉大に!」の呼び声のもとに福音派と共和党の蜜月が始まる。しかしレーガン政権が力を入れたのは経済的な再建で、福音派が望む保守的な社会政策は後回しにされた。

 90年代には、パット・ロバートソンの「キリスト教連合」という団体が誕生し、福音派と保守政治運動を牽引してゆく。92年の大統領選に登場したクリントンは、福音派が嫌う60年代カルチャーの申し子だった。しかし同時に、縦横無尽に聖書を引用し、人々とともに祈るなど、濃厚に福音派な側面も持ち合わせていた。さらに、女性インターンとの性的関係を認めて「悔い改め」たことは、福音派的理念にかなう行動と考えられた。

 2000年代、ジョージ・W・ブッシュは福音派とのコネクションを政治的資源とし、福音派に黄金時代をもたらす。イラク戦争を強く支持したのも福音派だった。福音派にとって、イラクや他のアラブ諸国を民主化し、かつキリスト教化してイスラエルを守ることは神の終末の約束に忠実であることを意味した。しかし米国民が徐々にテロとの戦争に疲弊していくと、福音派も新しい希望を求めるようになる。

 オバマの政治思想の根幹には、社会正義を掲げる黒人神学の伝統があり、福音派の中の進歩的な人々には歓迎された。しかしオバマ・ケア(医療保険制度の改革)問題は、福音派の右派と左派の裂け目を広げてしまう。また、オバマは、多様な信仰と無信仰者の混合が米国の姿と捉えていたが、米国はキリスト教国(白人のアメリカ)としてつくられたと信じる人々の鬱憤は膨らみ、暴発寸前となった。

 そして白人とイスラエルの味方として登場したのがトランプである。当初、トランプは福音派の指導者からは軽蔑され、批判される存在だったが、過激で人種差別的な発言が支持を集めていく。

 本書に登場する大統領たちは、いずれも私が同時代史として見てきた人々だった。中学高校の社会科では、アメリカは二大政党制で、国民はその政策を評価して審判すると教わり、私は歴代の大統領選をそのような目で見てきた。しかし本書を読んで、この国の「審判」が、必ずしも理性的・客観的な見地から行われていないことが分かってしまった。「アメリカは白人キリスト教徒の国である」とか「イスラエルを祝福する者は神によって祝福される」という信仰に基づいて、現実の政治指導者を選ぶこと、それも個人の自由の内かもしれない。しかし、そのような選択が広がりすぎた国は、どう考えても危ないのではないか。

 たぶん人間に宗教は必要である。社会の世俗化に抗いたい気持ちは分かる。しかし終章のまとめは深刻である。あらゆる社会には対立が存在し、対立を通じて社会を発展するというのは、近代の自由民主主義の根幹であるが、終末論的な世界観に立つ福音派はこの前提を共有しない。自陣営と敵陣営の対立は、神と悪魔の戦いであり、対話や合意形成を目指すものではないのだ。アメリカのイスラエル支援が、国外からどんな批判を浴びてもゆるがないのも、こういう文脈のもとにあるからかと改めて理解できた。しかし、著者が期待するような「現実に向き合う勇気」はあまり出なくて、ひたすら寒々しい気持ちが残った。