〇高媛『帝国と観光:「満州」ツーリズムの近代』 岩波書店 2025.3
1906年から2000年代半ばに至る約1世紀の時を横断し、日本人による満州ツーリズムの軌跡を辿り、観光という営為を通じて「帝国の物語」および「失われた帝国への郷愁」がいかにして醸成されていったかを探求する。
本書は刊行直後から気になっていたので、2025年9月21日に駒澤大学で開催された出版記念シンポジウムを聴きに行った。著者の高媛氏、その指導教官であった吉見俊哉氏、観光史研究の千住一氏、プロパガンダ研究の早川タダノリ氏から興味深いお話を聞かせていただき、特別割引で本書を購入して帰った。久しぶりの学術書に尻込みして、なかなか手を出せなかったのだが、読み始めたら一気に読んでしまった。
日露戦争前夜に形成された「大富源」の満州イメージは、利権獲得や満州経営に関する人々の期待感を煽り、1905年9月の戦勝直後には東京で「観戦鉄道」というパノラマ絵を用いたアトラクションが人気を博した。1906年には朝日新聞が汽船「ロセッタ丸」を借り上げ、満韓巡遊ツアーの300人以上の参加者を募集するという企画を立て、大反響を呼んだ。同じ1906年には「満韓修学旅行」も始まり、中等学校以上の生徒と小学校を含む学校教員など3000人以上が参加した。どちらも陸海軍の全面的な協力によって催行されたものである。その後、満州観光のインフラは徐々に整備されていくが、旅行者の受け入れを担ったのが、本来の(中国側の)「ホスト」ではなく、帝国のエージェントである「代理ホスト」すなわち満鉄や在満日本人観光機関であったことに著者は注意を促す。
1932年の満州国建国以後、満鉄沿線から離れた満州西部の熱河が観光地として急速に発展していく。現在の承徳を含む一帯である。外八廟や避暑山荘には行ったことがあるので懐かしかった。満州国建国から数年のうちに団体旅行客が急増し、満州旅行は社会的なブームになるが、1937年の日中戦争勃発と戦争激化によって、一般旅行客の渡航はほぼ停止となる。
戦前の満州観光客の感想には、われわれ(日本人)「戦勝国民」と彼ら(清国人)「亡国の民」という分断的な思考と、帝国の権力構造の正当化がうかがえる。ただし少数だが、帝国のまなざしへの懐疑と自省を吐露した者もいた。興味深いのは、見え隠れする「ジェンダー」の問題で、当初は公式の「国威発揚」的な満州観光旅行に参加できたのは男性だけだった。しかしすでに満州には醜業婦(売春婦)が多数流入し、殷盛をきわめていて、旅行者を驚かせている。1920年代になると、ハルピンではロシア人娘による「裸踊り」が名物となり、日本人を強く引き付けた。「西洋男性/東洋女性という従来の性的消費構造を見事に転倒させる」ことによって「外人制服」の快感を得たいという、屈折した欲望が消費されていたのである。
満州国では、旅順、大連、ハルピンなどで、バスガイドの同乗する観光バスが運行されていたこと、土着の民俗行事「娘々祭」が満鉄主導で観光化され、多くの中国人客を集めたことも面白かった。まだまだ細部に踏み込むと、面白い研究課題があるのだろうと感じた。
さて戦後である。1972年の日中国交正常化、1978年における中国の改革開放政策によって、両国は満州観光のゲストとホストとして再会することになった。1970~80年代、日本の旅行業界は、満州経験者向けに「思い出」「郷愁」をテーマにした中国東北地方(旧満州)ツアーを販売した。1970年には清岡卓行の『アカシヤの大連』が芥川賞を受賞し、日本国内においてアカシヤは大連の代表的なイメージとなった。しかし大連のアカシヤは、ロシア人が持ち込んだニセアカシア(洋槐)で、中国北方で一般に見られるアカシヤ(金合歓)とは異なる。けれども日本人の郷愁に引っ張られるかたちで、大連市はニセアカシアを市のシンボルに定め、1989年からアカシア祭(賞槐会)を開催するようになった。メインストリートの街灯がニセアカシアのかたちをしているのは、現地で見た覚えがある。
戦争や植民地の記憶は硬直した静的なものではなく、相互に影響し合い、変化するものであるという指摘がおもしろかった。観光は、こうした記憶を消費しながら、新たな政治的・経済的関係を生み出す営為とも言える。
本書を購入したシンポジウムでは、岩波書店の編集者の方が、そもそも著者の博士論文執筆時に声をかけて、20年にわたって単著の刊行まで伴走してきたという話を聞き、しみじみ感慨深かったので書き留めておく。