〇塩出浩之『琉球処分:「沖縄問題」の原点』(中公新書) 中央公論新社 2025.6
「琉球処分」とは、日中の両属国家だった琉球王国を日本が強制併合した過程をいう。これは本書のカバーの袖(折り返し)や帯に記載された説明であるが、著者は「まえがき」で、この簡潔な説明を導くまでの、いろいろな難しさを語って、本論に入っていく。
はじめに前近代の琉球について。14世紀半ば、沖縄島には山北、中山、山南の3つの王権があり、それぞれが明に朝貢していた。1420年代に中山王が琉球を統一し、明は中山王権を琉球の統一王権として認めた。16世紀末に日本を統一した秀吉、次いで家康も島津氏を通じて琉球に服属を求め、1609年、島津氏は琉球に侵攻する。以後、琉球は、幕府・島津氏の支配を受けるようになるが、日本の一部になったわけではない。東アジアの伝統的な国際秩序において、主従関係は国交のよくあるかたちで、2つの国に服属することも不思議ではなかった。しかし19世紀に西洋から持ち込まれた「主権国家」(1つの政府が国境の内側で完全な主権を独占する)の思想は、この伝統と相容れなかった。
19世紀に入ると、西洋諸国の使節が相次いで琉球に来航する。米国ペリー艦隊は日本との条約締結を目指していたが、日本との交渉がうまくいかない場合は、補給や避難のための寄港地として琉球を確保することも考えており、ペリーは琉球の主権が明確でないこともよく承知していた。そして、1854年3月の日米和親条約締結の後、同年7月に「琉米条約」が結ばれる。次いで1855年11月には琉仏条約、1859年7月には琉蘭条約が結ばれている。これは、西洋諸国が琉球を「日本とは別の国家」と考えていた傍証になるが、フランス、オランダ本国政府は、結局、琉球を主権国家と認めず、条約は批准されないままに終わった。
1868年、明治新政府が成立すると、まず諸大名に「藩」が公認され、次いで版籍奉還が行われた。その直後、日清修好条約が締結されたが、両国は「両国に属したる邦土」を明確にしなかった。
1872年、井上馨は琉球の日清両属を(天皇の)臣下の道に反する罪であると非難し、「内地一軌の制度」に改めるべきという意見書を提出する。以後、この線に沿って、琉球の「併合」が進められていく。現状の両属を維持を望む琉球王府は動揺し、さまざまな抵抗と嘆願を試みる。内務省出張所で開催された討論会では、清への朝貢は琉球にとっての「大義」であり、日本が国家間の対等な交際を条理とするのと異なり、琉球は「父子の道、君臣の義」を条理とするとする、と主張した。また、琉球は人種・言語・風俗などが日本に近いという日本政府の主張に対して、人種・風俗は日清のどちらに近いとも言えないと反論した。さらに清国の駐日公使・何如璋に密使を送ったり、西洋諸国の公使にも請願書を送るなどしたが、琉球王府の望む支援は得られなかった。こうした「琉球救国運動」は、日本政府に琉球併合を急がせる一因となったという。
本格的な琉球併合計画に着手したのは大久保利通で、これを完成させたのは伊藤博文である(よくも悪くも、やっぱり君たちか、という感想)。また琉球に派遣されて直接指揮に当たり、琉球処分の具体的な構想を練ったのは内務官僚の松田道之だった。1879年、太政官は琉球に対する一連の通達を発する。これにより琉球(藩)が廃止され、沖縄県が設置された。抵抗する「土人」(琉球人)に対しては、警察や軍隊を用いた処分が認められた。旧琉球王府の人々の嘆願にもかかわらず、旧琉球国王・尚泰と世子の尚典は上京させられ、天皇に「東京への居住を命じ」られた。
松田は、沖縄県庁への出仕を拒む士族たちに対して、それでは新県の職は「内地人」が独占し、「土人」は一人も職に就けず、「アメリカの土人や北海道のアイノ(アイヌ)」と同じになってしまう、と告諭しているという。併合された「土人(琉球人)」は「内地人」と別ものと見なす、植民地主義的な考えがにじみ出ていると言ってよいだろう。実際、1900年代になっても大和人と沖縄人には明確な上下関係があり、沖縄人は、差別を恐れて出自を隠そうとする場合があったことが、本書の終章にも語られている。
今日的な視点で見れば、東アジアの諸国が次々に主権国家に変貌していく中で、琉球が日清両属のあり方を維持できたとはとても思えない。国土の範囲を明確に定め、強力な主権国家を確立すべく奮闘した明治政府の指導者たちの思いも分かる。また琉球の存続を望んだのは主に士族たちだが、最下層の農民たちにとって何が最善だったのかはよく分からない(単純に日本の支配下に入って幸せになったとは言えない)。過去の評価は難しいが、少なくとも、いまの沖縄の人々が、日本の一部であることを肯定する状況であってほしいと切に思っている。