○吉川幸次郎『読書の学』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2007.4
記憶によればこうだ。高一の教科書に、中島敦の『山月記』が載っていた。面白かったので、新潮文庫の『李陵・山月記』を読んだ。その中に、孔子一門を描いた「弟子」という短編があって面白かった。それで、たまたま目についた文庫本の『論語』(朝日古典選)を読み始めた。これが、吉川幸次郎の校註だったのである。
それは、本当に、人生に一度しかないくらい衝撃的な読書だった。古典の校註というものが、こんなに面白いとは思わなかった。同氏の著作にのめり込んだ末に、理系に進学するはずだった私は、とうとう文学部に志望を変更してしまう。だから、私は吉川幸次郎の本に人生を変えられたとも言える。そのことを、私はひそかな誇りとともに記憶に留めている。
本書は、晩年の著者が、学問の方法について語った雑誌連載エッセイ。現代の学問は事実の究明を目的とし、言語は事実を獲得するための手段に過ぎないと思われている。著者は今世紀の学問の主流に敬意を表しつつも、言語を閑却して「それで、よろしいか」と問いかける。事実を伝達する言語は、またひとつの人間の事実である。そこに表れた「著者の態度」を、過去の日本と中国の学問は注視してきた。言語とは、すなわち音声の様相である。
中国文学を専門家とする著者は、驚くべきか、在原業平の名歌「月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」を例として、上記の学問を実践してみせる。六シラブルの初句の異常な姿、とりわけ「やあら(ya-a-ra)」という「階段を上がっていく足どりのようなa音の連続」が、不安と焦燥感を増幅し、「もとの(mo-to-no)」「身にし(mi-ni-shi)」と反復される末句の連続音、「逆にとぼとぼと下ってゆくごとき音声の姿は、人間にも自然にも裏切られた孤独な男の悲哀」を強調するというのだ。「事実」の学に慣れた現代人なら、馬鹿馬鹿しいとお思いだろうか。私は、これこそが「読書の学」の真髄であると、腑に落ちる思いだった。
続いて著者は、『論語』の「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎かず」を取り上げる。何と、契沖の『万葉代匠記』を紹介するかたちで。契沖は、人麻呂の「もののふの八十氏河の網代木に いさよふ波の行く方知らずも」の解説に、類似する感情の例として『論語』当該条を引く。この条は、孔子の詠嘆を「悲観」と見るか、「楽観」と見るかで議論が分かれる。契沖の当時、日本でも中国でも主流だった朱子の説は、これを「楽観」と考えた。けれども、契沖は「逝者如斯夫 shi zhe ru si fu」という五字のリズムを根拠に、「この章は、弱気な詠嘆の言葉でなければならない」と洞察する。「卓見である」(著者)。
このあと、契沖は六朝の詩賦によって自説を補強しており、さらに著者は漢代に遡って考察をめぐらせる。その博引傍証ぶりも興味深いが、やはり驚異的なのは契沖の、「言語はリズムによってこそ把握されることを、身をもって示す」態度である。この17世紀の万葉学者の態度に、20世紀の中国文学の泰斗は、ほとんど感動させられており、そのことに私はまた、深い感動を覚える。書物の言語は、音声そのものに比べれば不完全ではあるけれど、こうして時空を超えた知己に共感を届けることもあるのだ。
最後に、著者が後輩に与えた五言詩の一部を引こう。何謂善読書(何をか善く書を読むと謂う)/当察其微冥(当に其の微冥を察すべし)/努与作者意(努めて作者の意と)/相将如形影(相いとものうこと形と影の如くなれ)//此乃丈夫業(此れは乃ち丈夫の業)/奚其為為政(奚んぞ其れ政を為すを為さんや)。いいなあ~。拳拳服膺すべし。