見もの・読みもの日記

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野望の時代/劇画 ヒットラー(水木しげる)

水木しげる『劇画 ヒットラー』(ちくま文庫) 筑摩書房 1990.7

 長い前置きから。「特定秘密保護法」成立の見通しが強まったことに対し、教育学者の佐藤学先生が「法案に反対する学者のアピール」賛同者を募っているということを、内田樹先生のツイッターで知ったのは、11月26日(火)だった。素早く山口二郎先生が反応するやりとりを読んでいた(ちょうど昼休みだったので)。28日(木)13:00から学士会館で行われた会見の様子は、あとからネットで見た。内田樹さんのブログに全文が掲載されている。法案は26日(火)に衆院を通過。5日(木)には参院国家安全保障特別委員会において、与党が質疑を打ち切って採決。6日(金)参院本会議で成立してしまった。

 今週は、ずっとこのことが重たく胸を圧していた。私の周囲に、この一件を話題にする人はいない。かくいう私もリアル社会生活で、進んで話題にすることはしていないし、ブログやツイッターでも何も触れずにきた。でも、美しいもの、楽しいもの、美味しいものの話をしながら、胸の底で疼いていたのは、法案の成立に対する違和感と恐怖感である。国会前のデモに行ってみたいと初めて思った。今年の春から札幌住まいで、現実には行けないから、そう思ったのかもしれない。歴史を振り返って、かつて日本が戦争を始めようとした時代にも、大勢の「無関心な大衆」の中には、私のように「関心」を言葉にすることができなかった人たちがいたのだろうなと思った。

 法案をめぐって、ツイッターに流れてきた画像に、本書の一コマがあった。1933年、全権委任法(立法府立法権を含む一定の権利を行政府=ヒットラー内閣に委譲する法律)の採決にあたり、「ほとんどこの法案をみなさんに適用することはないでありましょう」と猫なで声で演説するヒットラーの図である。あ、水木しげる先生の絵だ、ということはすぐに分かり、ちくま文庫のこの作品、気になりながら未読だったことを思い出した。土曜日に大きい書店に走って、本書を入手し、読み始めた。思いのほか硬派な作品で、一気に読み通すことができず、途中で一休みしながら、夜中に読み終えた。読み終えたあとは目が冴えて、なかなか寝付かれなかった。

 不思議な作品で、何の解題もないのである。いつ、どんな媒体に発表されたものかという情報さえない。いま、Wikiに「1971年、週刊漫画サンデー」という記述を見つけたが、完全に初出のとおりかどうかは不明である。

 巻末には多数の参考文献が上がっており、作者独自の新しいヒットラーを創造しようというよりも、通説を手際よくまとめたヒットラー像を描いているのではないかと思う。水木先生には『神秘家列伝』という伝記マンガシリーズがあって、これは宮武外骨だの平田篤胤だの、いかにも水木先生のおともだちみたいな人々が登場するのだが、ヒットラーに関しては、作者の思い入れを感じるところは無い。それでも、人間的な側面(青年時代、ウィーンで同居した友人クビツェックが終戦後に語った挿話が好きだ)を適度に配しつつ、感情の起伏の激しい、愛国的な政治家・軍人であったヒットラーを、「マンガ」という媒体の特徴を生かして、冷静に、分かりやすく描いている(つまらない揶揄や皮肉は用いていない)。ヒットラー個人の「伝記」というより、ナチスの結党から政権奪取、さらに世界戦争へという稀有な時代の「歴史」を描いた作品である。特に後半は、ムッソリーニチャーチル、日本の松岡外相など、各国の重要人物が入り乱れて登場し、戦争の背後にあった国際関係を大づかみに理解するのにも役立つと思う。

 本書では、上記の「全権委任法」成立後、「すぐさまいっさいの政党は禁止され、彼(ヒットラー)はドイツの封建的な連邦国家制を廃し、中央集権国家を出現せしめた」とある。どうか日本にそんな日がめぐってくるのを見ることがありませんように。さらに国際連盟脱退に際して、ベルリンは歓喜する市民のたいまつ行進で埋まり、1940年、フランス軍を破ってパリに無血入城したヒットラーの凱旋には、教会の鐘が鳴り響き、町は旗と花と人の海で埋め尽くされた。それから、わずか5年。ドイツに残された果てしない廃墟。本書は、普通の「ドイツ国民」の姿を敢えて作品の中に描かないことで、読者の想像力を喚起し、痛ましさを増している。