見もの・読みもの日記

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東京下町の人と言葉/本所深川散歩、神田界隈(司馬遼太郎)

司馬遼太郎『本所深川散歩、神田界隈』(朝日文庫 街道をゆく36) 朝日新聞出版 2009.4

 『台湾紀行』を買うついでに、これも、と思って購入した。私は東京生まれなので、本書がカバーする地域とはつきあいが長いが、特に今年の4月から、深川に暮らし、神田に勤めるようになって、親しみが増したところである。しかし、読んでみたら(台湾紀行と同じで)あまり街の風景は描かれていなかった。特に本所深川編で、著者は江戸の風情を求めて歩くのだが、「現実はどうもただの下町に過ぎない」「閉口するほどに情趣がわきおこってこない」という嘆きが繰り返されている。執筆は1990年というから、まあ仕方ないと思うのだが、かなり執筆に苦労している様子がうかがえる。

 現実の風景に情趣がわかないので、自然と話題は歴史上の人物のことになる。本所生まれといえば勝海舟。その父・勝小吉の会話体の文章から、深川ことばの話になる。二葉亭四迷は『浮雲』を書くにあたって式亭三馬の会話を参考にしたと言い、「いわゆる深川言葉といふ奴だ」と説明しているらしい。確かに、東京弁とか江戸ことばという名称では広すぎる。私は深川におばさんがいて、このひとの話しことばが子供の頃から好きだった。おばさんの言葉は、東京住まいのほかの親戚とはどこか違っていた。上品すぎず下品でもなく、ストレートできれいなことばをつかう人だった。

 芥川龍之介も本所の育ちである。著者は、芥川の小説の登場人物たちの会話を分析し、「です」「ございます」等の文末の効果を論じている。「です」は明治・大正の書生ことば、近代人のことばであるというのが面白かった。

 また、家康の関東入部に始まり、深川一帯が整備されていくプロセスは、この夏、江戸東京博物館の常設展示で学んだことのちょうどよい復習になった。深川の地名は、一帯の開拓者である深川八郎右衛門に由来するそうだ。本書には載っていないが、菩提寺の泉養寺(市川市国府台)に墓所が残っていることや、八郎右衛門の屋敷の祠が深川神明宮(森下)の起源であることを知ったので、ここに書きとめておく。

 なお、現実の風景はほとんど描かれていないと書いたが、例外は隅田川にかかる橋の風景である。著者は船で隅田川を下り、土木工学の宮村忠さんとともに、橋の数々を眺めている。家康の関東入部の4年後に架けられた千住大橋は、慶応4年、最後の将軍慶喜が江戸を出て水戸に向かう橋となった。そして明治18年の洪水で流失した。なんだか江戸幕府と運命をともにしたような因縁の橋である。このとき、流れ出た千住大橋の橋材が下流吾妻橋を襲って吾妻橋も落ち、その下流厩橋はあやうく難を免れたという。すさまじい。

 神田編でも、いちばん印象的だったのは火事と火徐地の話だった。神田佐久間町は特に火元になることが多かったといわれる。しかし関東大震災のとき、神田はおろか東京の下町はほとんど焼けてしまったのに、神田佐久間町だけは焼け残ったのだそうだ。知らなかった。しかもその理由は、佐久間町の人々が町内を一歩も退くことなく「中世の籠城戦のように火という火を叩きふせて」消してしまったから、というのは小気味よすぎる。もちろん、こんなことを推奨すべきではないけれど、足掛け二日、消火にかけまわったという、下町らしい痛快な逸話である。「むかしからの不評判に、全員が腹をたてていたにちがいなく」と、著者はユーモアをこめて書いている。

 神田編の冒頭には、共立女子大の大講堂が目立つ交差点の風景が描かれ、この一帯も火除地で「護持院ヶ原」と呼ばれたことが示される。今、私が通勤している界隈だが、「護持院ヶ原」と聞いて思い出すものがあった。そう、森鴎外歴史小説『護持院原の敵討』の舞台なのである。本書には、この小説のあらすじも紹介されている。ただし鴎外の小説に護持院ヶ原の風景描写はないそうだ。

 神田に関係する人物として取り上げられているのは、神田にあった共立学校に通った夏目漱石。女子医学校を起こした吉岡弥生正岡子規と妹の律。律は共立女子職業学校に通い、母校の裁縫の教員となった。『坂の上の雲』が思い出されて懐かしかった。神田は学生の街なんだなあ。

 神田明神について。明治7年、本殿に祭られていた平将門の神霊がにわかに別殿に移され、少彦名命の分霊をお迎えするという御祭神の変更が行われた。全く明治政府なあ…。将門公が正式な祭神に復帰したのは昭和59年のことで、大河ドラマ風と雲と虹と』の将門人気が一役買ったかたちだという。結果的にはめでたいことだ。神田明神といえば銭形平次で、野村胡堂の平次と岡本綺堂の半七を、特にことばづかいの面から比較した一段も面白かった。