見もの・読みもの日記

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美術の近代を目指して/東京美術学校物語(新関公子)

〇新関公子『東京美術学校物語:国粋と国際のはざまに揺れて』(岩波新書) 岩波書店 2025.3

 東京美術学校東京芸術大学の前身)は、1887(明治20)年10月に創立が決定し、明治22(1889)年2月に最初の学生を受け入れた。芸大では明治20年を起点に創立何周年を数えることが習慣になっているそうだ。

 私はもともと日本の近代化をめぐるゴタゴタ話が好きなのだが、本書「まえがき」で、著者が2002年から2008年まで芸大美術館教授として数々の展覧会に携わってきたこと、その際『東京大学百年史』のお世話になったこと、この書籍が、実際は吉田千鶴子という女性がほぼひとりで編集著述した労作であることなどを知って、冒頭からブーストがかかった状態で読み進んだ。

 1876(明治9)年、唐突に工部美術学校が設置される。工部卿伊藤博文主権国家らしい近代都市の景観創出のため、画工、彫工、建築装飾工などの職人養成を目指した。工部大学校に6人の女子学生がいたことは初めて知った。当時は欧化主義の全盛期だったが、すぐに国粋的風潮が台頭する。その先鋒となったのが、東大教師のフェノロサ、文部官僚の岡倉覚三(天心)、さらにフェノロサは自分の美術理論を実現する「手」として狩野芳崖を見出す。芳崖の『悲母観音』にフェノロサの哲学を読み解く説、加えて、芳崖が手本にしたと思われてきた、作者不詳の『魚籃観音』(フリーア美術館)も芳崖作ではないかという推定は、たいへん面白かった。

 欧化一辺倒の工部美術学校は1883(明治16)年に廃校となり、西洋画科のない国粋的美術学校・東京美術学校が開校する。背後で泣いたのは、高橋由一、原田直次郎、山本芳翠らの洋画家たち。芳翠はパリで黒田清輝を見出し、日本洋画の未来を託すことになる。

 東京美術学校の初期の卒業生には横山大観、下村観山、菱田春草らがいる。彼らの証言するフェノロサの教授法はなかなかユニークで、姿勢を正しくして(懸腕直筆)縦の線、横の線、斜めの線を何百本何千本も描かせたという。創造的思索と職人的な手の熟練はどちらも大切だと分かっていたようだ。しかし1893(明治26)年の米国シカゴ博への出品では、東京美術学校教授陣の作品は評価されず、高村光雲『老猿』と鈴木長吉『十二の鷹』が入賞し、岡倉の芸術観が古いことが明らかになってしまう。日本画も西洋画も究極の目標は西洋の評価を得ることなのだが、なかなかうまくいかない。

 世間の批判をかわし切れなくなった岡倉は、1896(明治29)年、西洋画科の発足に踏み切る。黒田校長の下で、人事をはじめ、八面六臂の活躍をしたのは黒田清輝。黒田には、1900年のパリ万博に出品した『智・感・情』という作品があるが、これは絵画に道徳的イデアを要求した岡倉の影響が色濃い。黒田は二度とこのような寓意画を描かなかったが、『智・感・情』を誰にも譲らず死ぬまで秘蔵していたのは、何らか特別な思いがあるようにも感じられる。岡倉の失脚(博物館・校長・万博評議員を辞任)は九鬼隆一の妻との不倫スキャンダルと結びつけられることが多いが、著者はむしろ、岡倉家の家事手伝いだった姪の貞に男子を生ませたことが原因ではないかという。貞は自殺未遂を経て、岡倉の弟子・早崎稉吉の妻になった。明治の男女関係はよく分からないなあ…。

 1901(明治34)年、岡倉の失脚と連袂辞職の余波、洋画科の人気と日本画科の低迷など、課題の多い東京美術学校に校長として着任したのは正木直彦。このひとの名前は、芸大美術館の『コレクションの誕生、成長、変容』展などで覚えた。次いで1932(昭和7)年、洋画家・和田英作校長が着任する。このとき、国粋主義者横山大観は、大日本帝国の美術学校が洋画家を校長とすることに激しく憤り、異議を申し述べている。これだから大観は苦手なのだ。

 しかし大観、戦時下に「彩管報国」を唱え、波を描いてもお月様を描いても「国体の精華」だから「報国」になると主張した(情報局を誘導した)のは知恵者だったかもしれない。1944(昭和19)年には、なんと東京美術学校の教師陣総入替えを実行している。辞職を迫られた人々は「あまりのことに冗談と思ったのかもしれない」という記述に笑ってしまった。新人事の結果、小林古径安田靫彦梅原龍三郎安井曾太郎らは着任しているのを見ると、さすがの目利きだと思う。戦後の芸大の体制は、大観が基礎をつくったとも言える。